ニューイングランド:黒海沿岸のアングロサクソン植民地、黒海十字軍
ノルマン・コンクエスト後に黒海に進出したイングランド人
1066年のノルマン・コンクエスト後、イングランドから海外に逃れた人々が、黒海沿岸に植民地を作ったことは知られていない。
今回はこの黒海にあったニューイングランド(New England)について見ていく。
ニューイングランドについて説明する前に、まずノルマン・コンクエストについて説明する必要がある。ノルマン・コンクエストは、1066年のノルマンディー公ギヨーム2世による、イングランド王国との一連の戦いとその征服を指す。
エドワード懺悔王の崩御に伴う後継者争いギヨーム2世は自らが王位継承者であると主張、ブリテン島に侵攻し、ハロルド・ゴドウィンソン(ハロルド2世)をヘイスティングズの戦いに討ち取り、勝利した。ギヨーム2世はイングランド王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を開いた。
2.ウィリアム1世支配を嫌い海外へ
ウィリアム1世のノルマン・コンクエストの後、一部のイングランド人はウィリアムの支配下に入らず自分達の領地から大勢の軍勢を引き連れて逃げ出した。彼らのリーダーはグロスター伯爵シグルドであった。
シグルド率いる軍勢は、シグルドを含む3人の伯爵と8人の男爵と350隻の隻の船と大勢の軍勢で構成されていた。
3.異教徒の戦いの中でコンスタンティノープルでの争いについて聞く
シグルド率いる軍勢は、まず海を南下してサン=マティウ岬(フランスのブルターニュ地方の岬)の沖を西に進み、ガリシア地方(スペイン、ポルトガルの真北)の沖を進み、ジブラルタル海峡へ超えて、セウタ(アフリカ大陸北岸にあるスペインの都市)へ向かい、彼らはそこで異教徒(イスラーム教徒。この時代、セウタはイスラーム王朝のムワッヒド朝下)の大群を殺害し、金銀で多くの報酬を得た。
ジブラルタル海峡を越えたシグルド達は地中海に入り、マヨルカ島とミノルカ島(どちらもバレアレス諸島)の2つの島を獲得した。その後、彼らはシチリア(イタリア)に向かった。彼らがそこに来たとき、彼らはコンスタンティノープル(原文ではMicklegarth)での大きな争いを聞き、異教徒が海と陸の両方でうろついていることを知った。
その頃、キルジャラックス(原文では、Kirjalax the tall、時代的にアレクシオス1世コムネノス?)が皇帝となり、権力を握ったばかりだった。
4.コンスタンティノープルへ向かい異教徒と戦う
シグルド達は、コンスタンティノープルでアレクシオス1世コムネノスより以前はコンスタンティノープルの皇帝の支配下にあったが、現在は異教徒に支配されている土地について聞いた。
ニューイングランドの現在
現在のノヴォロシースクがニューイングランドに相当するようである。
このニューイングランドについてのエピソードは、キリスト教とイスラーム教との争いと言う側面がある。当時のイングランドはカトリックであり、シグルド達の戦いは十字軍の一種であったとも評価できる。すなわち、黒海十字軍と名付けることも可能ではないだろうか。
参考文献
Dasent, G. W., ed. (1894) Icelandic Sagas and Other Historical Documents Relating to the Settlements and Descents of the Northmen on the British Isles vol.3 KRAUS REPRINT LTD(1964)、pp425-428.